ハーフ(混血児)という存在と背景
私はフィリピンで産まれてしばらく5才になるまで、祖父母に育てられました。それ以降は母に連れられて日本に渡り、ずっと日本で育ちました。つまり、5才まではタガログ語(フィリピンとスペインが混ざった言語)が日常会話に馴染んできた頃に、いきなり見知らぬ国に来たわけです。まだ子どもなので、きっと日本には遊びに来たのだろうとはしゃいだと思います。が、特に説明もされず日本で生活していくことになると実感した時は心細かったと思います。
家庭状況が複雑すぎて詳しい事情は省きますが(次回以降に改めて記事で述べます)
とりあえず、頼りである母の日本語がカタカナが読めるくらいのレベルだったので
5才でそのハンディをどう乗り切ったのか?我ながら苦労したのだろうと想像します。
日本語の読み書きができた頃の記憶では、母が読めない文字を子どもの自分が教えたり
人との会話の中にでる知らない日本語を教えたりと、通訳みたいな役割になっていたり。
親が渡国した先の言語を理解していない環境である場合は、子どもが学習で理解したことを
親に教えるのが当時ハーフ児の役目だったかと思います。現在に至っては流石に
そういったケースは減ってるかと思いますが一般より多い情報量を抱えて生きてます。
日本人としての自分
まず外国生まれから日本国籍を取得するに至るまでの日本国憲法に基づいた説明をいたします。
・未成年の国籍選択は?
日本の国籍法は、単一国籍が原則ですから、外国及び日本の国籍の双方を有する方は、その重国籍になった時が18歳未満であれば20歳までに、18歳以降であればその時から2年以内にいずれかの国籍を選択しなければなりません(国籍法14条1項)。
つまり当時は20歳(2022年4月改正後18歳)になるまで私は二重国籍でした。
ですので、適齢期が近づくと母から『絶対に日本人になりなさい』という圧力が
いまだに記憶に根深いのですが、結果的に日本人に帰化することを選択しました。
子どもながらに変な感覚でした。『日本人として日常を送っている自分は日本人なのだ』と己に言い聞かせたとて、役所に行くと『あなたのルーツはフィリピンですよ』と戸籍上でキッチリ再認識させられるたびに、日本人として培ってきた意識や日本国民としての自覚をリセットされている感覚が交錯してしまい、正直めんどうでした。
そんな煩わしさはありながらも、日本人として生活して生きていくために勉強をしました。
でも、勉強は苦手でした。ただ、趣味として本を読んでおり、主にジャンルは歴史を好んでいました。そのおかげか、識字率は自発的に高くなり漢字検定2級を合格するレベルでした。情緒についても、表現豊かな日本の文章で身に付きました。自衛隊の親近者と関わってた環境もあったからか、日本への愛国心も芽生えました。
でも、そんな私を日本人として見てくれる人は少なくとも幼少期から思春期では少なかったと思います。同世代の友達から色眼鏡で見られた背景としては恐らく『waniさんの所の子は日本人じゃないからね』とその友達の親から吹聴があったのかなと、今になって思います。当時は携帯電話はもちろんGoogleなど便利な検索や特定できる機能などはなく、人から人への伝聞が主流だったので無理もありません。
もし自分が日本で生まれて日本で育つうえで必要ないことだったかもしれないことを、遠回りしながらも日本とはなにか?について知りながら経験しなければ、こんなに貴重な人生観を築けなかっただろうと確信してます。もちろん、コンプレックスはありました。しかし我が子は日本で生まれて、クォーターという血筋ながらも最初から日本国籍を持った日本国民なわけです。それは極当たり前なことなんですが、自分の人生を通してみるとすごく情報がコンパクトでいいなと羨みました。そういったとても複雑な感情のまま、自分は日本人だよね?と自問して生きているわけです。
フィリピン人としての自分
戸籍上の出生地はフィリピン国マニラ市としっかり記載されています。これは変えようがない事実であり記録です。そしてそこで生まれ育った記憶としては、5才までです。その微かな記憶を頼りにしながら綴ると、まずフィリピンという国は家族が大事というコンセプトが強いです。それはどの国でも当たり前のことですが具体的な実態で表すとするなら、親戚が両隣や近辺に必ず住んでいて親戚が互いの家を自由に行き来するレベルです。
日本人からすると気まずさ息苦しさを感じそうですがフィリピンではそれが一般的です。
成人したら自立して一人暮らしなんて、ほぼ皆無です。実家暮らしか親戚が隣り合わせ。
そんな家族最優先の感覚と環境のフィリピンで、私は祖父母に5才まで育てられました。
フィリピンの国民性としてはとても陽気で感情的なので喜怒哀楽がハッキリしています。
歌や踊りが大好きで、近所でパーティーをやってれば飛び込み参加なんて当たり前です!
メロドラマが好きで、家族や近所で集まり鑑賞して老弱男女問わず笑ったり涙ぐんだりと
とにかく感情が忙しい国なんですが経済的な背景としてはとても貧しい国でもあります。
しかし、とても人生を楽しんでいるのは明らかで家族や友人や隣人を大事にする国です。
フィリピンは様々な国々からの干渉もしくは統治をされてきた、いわば多民族国家ですが
スペイン統治は1521〜1898年と約300年と長いことで文化的にも伝統的にも影響してます。
フィリピンという国名はフェリペ皇太子(1542年)にちなんで名付けられたのが由来です。
国家的な主宗教でもあるのですが、フィリピン国民の83%が熱心なカトリック教徒です。
日曜日は必ず教会へ行き、礼拝ミサをします。強制ではなく伝統として習慣化してます。
定刻になるとショッピングモールであってもアナウンスが流れ、みんな静かに祈ります。
そういうわけで私はご先祖から受け継いでるものがカトリック教で、洗礼名があります。(洗礼名とは外国圏によってはミドルネームとして名乗ることもできます)
他にもいろいろあるのですが、もし興味をもっていただければまたの機会にでも語ります。
精神疾患者としての自分
最終的に約10年住んでいた福岡で職場いじめやパワハラなどで希死念慮がピークでした。
そして同僚だった妻がそれをみかね妻の地元である鹿児島へ移り精神疾患との診断となり。
原因としては福岡だけではなく、いままで積み重なってきたものでした…以下で述べます。
私の精神疾患における【先天的・後天的な要因およびトラウマ】
・0〜5才のおける生活環境および日常言語の変化への困惑
・祖父母や母が共通して感情の自制が難しく気性が荒い家系
・養父から毎夜、日常的な差別や虐待(幼少期から思春期まで)
・愛する育ちの地元から逃れなければならなかった悲しみ
・自分の生まれたルーツを隠し家族からも隠れるように生活
・もう生死などどうでもいいような自暴自棄な生き方をする
・私の唯一の理解者で支えだった5年交際した恋人との死別
・廃人になる
・その後、人間関係が破綻しやすく社会性が欠如していく
・否定してきた己の精神疾患を自認し、保ってきた自尊心を失う
本当はもっとあるのですが、キリがないのでおおまかにお伝えするとこのような経緯です。
最後のほうは語弊を招くので補足すると、精神科医やカウンセラーからの診断を基にして
精神疾患の度合いを決めていくものですが、一番重要なのは精神疾患に対する親族の理解と遺伝的な根拠です。それで、私への親の認識は『お前は頭がおかしい』とだけ侮蔑されて、なんら精神疾患に関する理解どころか悪化するような環境下でいて、遺伝的な根拠など尋ねることは不可能でした。祖父母は気性が荒かったものの、5才まではしっかりとした愛情をもって私を育ててくれていたと記憶しています。そのかすかな記憶と愛情によって自分のアイデンティティを保てたので、たとえ祖父母が精神疾患に理解がなくともそれはそれで成り立っていたかもねと思い返したりもします。
私の自尊心とは【複雑な生い立ちで自分の存在意義をなんとか保ってきた】という事です。
どちらでもない自分
日本での私は少なくともルーツを求められる状況ではフィリピン人と明かさなければなりません。同級生からよく『英語とか喋ってみろよ』とからかわれるたびに、喧嘩してました。そして、学生だった頃の夏休みにたまにフィリピンに里帰りすると『ハポン!(日本人という意味)』『お金くれよ』とからかわれ、そっちでもよく喧嘩していました。どっちとも喧嘩していますね(苦笑)きっとそうでもしないと同級生や大人たちからの国際差別であったり、養父から虐待されてる実情だったり、様々な板挟みに押し潰されそうになるのでそれらを跳ね返すために必死だったと思います。
結果的には、喧嘩した相手とは仲良くなっています。でもすでに大きな心の壁があって相手が踏み出せない領域を抱えていたので、誘われてもグループには群れずに孤独でした。
孤独でいる弊害として社会性の欠如は必然で、これまで何度も人間関係が壊れていました。
日本人としてもフィリピン人としても社会人としても認められず何者にもなれない存在
そんな私によく『逆境をバネに…』というアドバイスを何度もいろんな人からされると
『つまり…他人事なんだな』と冷めたドライな感情が芽生えていったりと逆効果でした。
そんなどちらでもない私を私らしくたらしめた出来事は自分の子どもの誕生でした。
妻の出産に立ちあったのですが、産まれてすぐ娘がまっすぐに私の瞳を見つめたときに
自分をみてくれていると実感した瞬間です。視覚ではなく、感覚的に伝わりました。
人は『人生は一度きりだな』と悟ると、2度3度と新たな人生が始まるのだと言われます。
プロフィールにも紹介していますが、これから私を知っていく人にルーツを明かします。
有利か不利かではなく、自分が何者であるかは決められることなのだと悟ったからです。
今回はかなり長くなりましたが最後に話のまとめに、これだけは言いたいと思います。
人に合わせて人にわかりやすく生きることで【そのうち自分を見失わないでほしいです】
人から見た自分への人物像、自分だけが知る自分のこと、そのバランスをどうか大事に。