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僕の人生に起きた二つの喪失体験

喪失体験とは

喪失体験とは、自分の大切なものを失う体験のことです。人は多かれ少なかれ、この喪失体験を経験し、それが良くも悪くも、その人の人生に影響を与えていると思います。僕にも内包しているものが、あります。

一つ目の喪失体験は東京で発症した統合失調症、二つ目の喪失体験は母の死です。これらは僕の人生において、とても大きな傷を心に残しました。もう過ぎ去った事だけれど、その傷は今も僕を苦しめるし、無くなる事も、無いでしょう。

統合失調症

以前、記事にしたので、重複しますが、統合失調症の発症はいまだに僕の中でぐつぐつと煮えたぎる溶岩のように、そこに在るものです。病状としては良くなっています。ただ病状うんぬんよりも、僕を苦しめるのは、失われたもの、もう二度と帰ってこないもの、そういうものを感覚で認識した時です。毎日のように失われた青春を想います。人は何かしらの欠落を抱えながら生きていかなければならないのでしょう。それでも一生、納得など出来ないと思います。

人として生まれたからといって、必ずしも傷を抱えて生きなければならないのか?

母の死

2月に母が他界しました。自分で死を選びました。今現在、半年以上経ちましたが、朝起きると、母の不在を確認してから、思考は動きはじめます。思い出さない日はありません。母は自分で選んだし、それを尊重したい、そのような心の持ちようなのですが、寒い冬のなか、たった一人で、どのような想いだったのか、そう考えると、やはり心は苦しくなります。母は人生において、幸せな瞬間もあったでしょうが、抱えていた闇を、ずっと誰にもさとられないことは、やはりとてつもない苦しみだったのだと思います。子として何かしらの事が出来なかったか、その死は、本当に母が迎えるべきものだったのか、そのような事が、度々、頭をめぐります。生きていてほしかった、やはりそう思います。生きていれば、もちろん苦しみ、辛いこと、たくさんの障害があります。でも喜び、楽しいこと、これらも必ずあるはずです。世界は美しい、それは誰しもが平等に感じる事が、出来うるものだと思います。生きていれば、生きてさえいれば…。

今では母がどんな声をしていたか、だんだん思い出せなくなってきました。それがただただ悲しい。

喪失を抱えて

生きていかなければならないです。前をみて歩かなければ。失われたものを認識できるのは、それが大切なものだったから。生きている人しか、亡くなったひとを思い出せないから。

そしてわかるのです、いかに自分が素晴らしいものに、生まれて、出会えたかを。
もしもそういうものが悪いものだったら、多分、喪失したとも思わないでしょう。

そういう風に自分を少し励まして、ほんの少し一歩前へ。そうやって生きていこうと思います。とてもさみしいけれども。

読んでいただきありがとうございました。(9月14日時点)

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