Toti・Solerとの出会いはサブスクの中にあった!
私が今、最もその音を聴いている音楽家のひとりとして、Toti・Soler(トティ・ソレール)という方がいらっしゃいます。この方の音楽は私の人生を間接的に救ってくれたものと言えるので、是非ともこれは書いておきたいところなのです。
サブスクリプション・サービスで様々な音楽を探して聴くことが趣味となってもう長いものです。Totiの音楽を知ったのもやはりサブスク内でのことで、Apple Musicで取り上げられている回数が多かったので聴いてみることにしました。
初めて彼の音楽を聴いたのは「Vida Secreta」というアルバムで、再生した瞬間に鳥のさえずりが聴こえてきました。私の愛聴してきたアルバムには大体鳥のさえずりが入っているというジンクスがあるのですが(イギリスのギタリストであるドゥルッティ・コラムのファースト・アルバムなど)、このアルバムもそうであることに、新たな名作の予感を覚えました。
そこからはまさに新鮮な驚きの時間。ガット・ギターが時に朗々と、時にアンニュイに広がる世界。とにかく聴いていて落ち着きました。当時は酷名い鬱病に罹患しており、音楽を聴きながらベッドで寝転がることしかできない、とても苦痛な日がほとんどでしたが、そんな何もない(むしろ何もないことを強制されているとも言えるかもしれません)真昼の時間にぴったりな音楽のように思えました。
このアルバムを聴きながら午睡を取るのが、いつの間にか日課となっていたのです。そしてこのアルバムは、精神のメンテナンスを行う常備薬のようにして今でも愛聴しています。今回はToti Solerの音楽とその人となり、そして私のToti Solerの音楽に対する思いについて書いていこうと思います。何卒お付き合い下さいませ。
Toti Solerとはどんな人?
Toti・Soler=トティ・ソレール、本名ジョルディ・ソレル・イ・ガリ(Jordi Soler i Gali)氏は1949年6月7日生まれ。スペインの音楽家です。1960年代にはPic-Nicというグループに、1970年代にはOmというグループに在籍していました。
ブルース、ジャズ、フラメンコ、クラシック、詩の引用など様々な音楽、そして音楽以外の表現を総合した独自的な音楽を形成するアーティストです。
ロンドンのギターセンターにて受けた音楽的な訓練が下地にある彼の音楽には、タージ・マハルやディエゴ・デル・ガストルなど様々な音楽家からの影響も加味されています。コンサートではバッハの楽曲を演奏するなど、レパートリーも多角的であり豊富です。
私的Toti・Solerのおすすめアルバム
ここからは、私が個人的によく聴いているTotiのアルバムについて、色々と書いていきたいと思います。
彼の作品は総量を見ると本当にたくさんありますが、最もよく聴くのは前述した「Vida Secreta」。ほとんどガット・ギターで空間が埋め尽くされた、繊細な音で心を描き出すことにこだわる、音楽家固有の美学を感じさせる個人的名作です。
何か植物の成っている様子が描かれたジャケットに絶妙なわびさびを感じ、小鳥のさえずりからガットの残響へと引き込まれていくうちに、心が穏やかに安らいでいきます。
ギターサウンドという媒介を通してTotiの内的な精神世界へとトリップしていくような感触が大きく、本当に何度も聴き返したくなるような、事実何回も聴き返してそれでも全く飽きが来ない。
実にエヴァーグリーンなアルバムです。作り手の内面的な世界に誘ってくれるような作品は、何度も聴きながら、より理解したり浸ったりしたくなるものです。
そして、そういった作品は意外と少ない。特に音楽ソフトで幾重にも音をデフォルメしているような作品が多くなった今となっては、こういった内面世界をくっきりと映し出すような音にはなかなか出会う機会がないのです。ですから、この「Vida Secreta」のようなアルバムは誠に貴重です。
「Vida Mes Alta」というアルバムも素晴らしいです。ガット・ギターだけではなく様々な楽器が入ったアルバムで、それでいて一般的な音楽より根本的な部分でクールダウンした雰囲気は不変。
フラメンコ的なギターの節回しも出てくるのですが、一概にフラメンコだ!とだけ意識させないような、より複雑で大きな音楽に聴こえるのは気のせいではないと思います。
Totiが様々な音楽を聴いてきた方であるが故に、そしてスペインという地から生まれた音楽であるからこそ、このようなアンニュイさ・舞踏的な部分・郷愁的な切なさを兼ね備えた音が出てくるのでしょう。
日本にはあまり見当たらないような、落ち着いた異国のサウンドを楽しむことができます。
なぜToti Solerの音楽はこんなに気持ちいいのか?
このようにTotiの音楽は、聴いていてとにかく気持ちがいいです。ただ音を聴いているだけで見事に感情がクールダウンしていく感覚があって、私にはぴったりなのです。では、なぜこんなに気持ちいいのか。そこも分析してみようと思います。
理由の一つとしては、やはり「音に多めの余白がある」ということがあるでしょう。
歌詞も音もぎゅうぎゅう詰めになった情報量の多い音楽は、一本の映画を短時間で楽しむような手軽さ、そして楽しさが光りますが、時として疲れてしまう。Totiの音楽はひとつひとつの音が紡がれていく中に多くの余白があり、トータルタイムも長く取られています。美しい音を、大きな余裕を持って楽しめる。これは非常に大きいと思うのです。
次に、「使われている音の数が少ない」ということが要点になると思います。
これも音楽の気持ちよさに深く関わってくる箇所です。 様々な音を一曲の中に詰め込むことによる利点として、耳を惹くようなカラフルさが身についたり、曲の展開を多くできたりといったことが挙げられると思われます。そういう意味ではTotiの音楽の波は非常に静かで、慎ましやかです。
賑々しい音を選んでいない。音のバリエーションが明確に絞られている。これがTotiの音楽の気持ちよさにおける大きな要点なのです。いろいろな音がないということは、気が散らないということ。安定して耳に音を吸収できる土壌があるということです。
そしてその音ひとつひとつがガット・ギター、シンプルな打楽器、優しい歌唱などの持ち出しだけに抑えられている。そのおかげで、気負わずにTotiの音楽を聴くことができます。
話は変わりますが、私は最近リズム、ビート音の入った音楽をあまり聴かないようにしています。理由としては単純にそういう気分でないから。リズムを刻みたい気分ではないから。という、ただそれだけです。
リズムに乗りたくて音楽を聴いていた部分もこれまではあったのですが、今の私のモードはそうではないのです。そういう時にTotiの音楽はとても映えてきます。そこには、ビートの薄い余白の中での、美しい音の紡ぎ合いだけが追求されている。そして、そういった耳の変化は誰にでも起こり得ることであると思います。
耳だけでなく、身体の変化の中で「今はこんなご飯はうまく食べられない」「今はこんな歩き方は気持ちよくない」といったことも人間にはありますから、そういった身体の反応に対して機敏に、繊細になれると、音楽の聴き方はますます楽しくなるのかもしれない。私はそんな気分を掴み始めているのです。
今後、こういった大気中に音が溶け合っていくような音楽が増えていけば、私としても世界の在り方としてもなお豊かなのだろうな……と少し思っています。
惜しくも亡くなられた日本の偉大な音楽家であり、ヒップホップ・ムーブメントを日本に仕掛けた重要人物であるECD氏の「キックやスネアが、今、〜小節目の〜拍目です、という標識のようにしか聴こえなくなってきた」という旨の発言が、ふと思い出されてきます。
昨今の音楽の在り方についても交えつつ、今回のまとめ
2020年代という新たなディケイドに入り、音楽の在り方は目に見えて変わっています。自己主張に富むような音楽、闘争的な音楽ははっきりと好まれず、ひと時でも耳を潤してくれるような効能が音楽というメディアに再度求められているように思います。
この流れは鬱病の苦しい期間、私が音楽に求めていた望みと見事にリンクしています。私が経験した鬱の暗闇は、音楽という別の扉を開いたことで晴れたことを考えると、現実社会の歪みが音楽に改めて「治癒」「浄化」という責務を意識的に、あるいは無意識的に促している現在の流れは、極めて理に適っていると思われます。
私は今日もTotiのアルバムを聴きながら眠りに就きます。個人の眠り、休息時間、鬱に侵食されそうな心。それを音の力で守ってくれる音楽に、感謝の念で一杯なのです。