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発達障害への関心高まる今「重症心身障害児」を考える

発達障害者へと同等の関心を重症心身障害児にも

発達障害という言葉が、普段から配慮すべき対象として、私たちの日常に定着し、認知が広まっています。発達障害が人口に対し一定の割合で存在する以上、症状を呈する人はさらに古い時代から存在していたはずで、広まったといっても、発症者数そのものがこの数年で急激に増加したわけではないでしょう。

発達障害についての詳しい研究が進み「発達障害」という用語が普及した結果、教育や福祉の世界で取り上げられる機会が増加し、潜在的な発症者が表面化しやすくなってきたということに、理由があるのではないでしょうか。

発達障害

発達障害の症状を呈する人たちは、今から数十年前にも同じく存在していたはずです。ここ数年で発達障害という疾患名に触れる機会が増えた理由には、発達障害を受け入れようとする社会の意識が、ようやく改善の兆しを見せてきたことにもあるでしょう。

地域支援

これまでは素知らぬふりを決め込んでいた人たちが、「発達障害」という言葉が社会に普及し始めた途端、まるで手のひらを返すように「配慮している自分」ファッションを着こなし始めたということです。

国も、障害者への配慮を促進する政策を徐々に打ち出し始めました。社会的な受け入れ体制、地域で自立する支援システム、そして、障害者雇用による経済的自立まで。

関心度

しかし、健常者とされる人々のほとんどは、発達障害というものが一体どういった個性を持つものかについて、ほとんど知識を持っていません。だからといって、そういった方々が情報を集める訳でもありませんし、配慮をわきまえた自分を演じるだけというのが、健常者にとっての精一杯の自己防衛手段だろうと思います。

そういった、障害者からはなるべく遠い位置に自分を置いて、自分は生きていきたいと希望する人々が増加する社会において心配なことは、そうであれば、もっと切羽詰った重度の障害をいくつも併発する「重症心身障害者」に対しても、政府や一人ひとりの市民が、同じように配慮できるのか?という点です。

重症心身障害者

重症心身障害者(児)とは、重い身体障害(肢体不自由)に、精神遅滞、知的障害、行動障害、てんかんなどが合併している人を指し、昭和41年発表された旧厚生省の定義によると「身体的・精神的障害が重複し、かつ、それぞれの障害が重度である児童および満十八歳以上の者」と、表されています。

苦しみから目をそらすな

その症状に軽重多々あるけれども、障害者においては比較的生活力のある発達障害者への配慮が加速する一方で、車椅子に固定され手足を動かすことさえ困難な、重度の知的障害を併発する重症心身障害者に対しても、等しく社会参加が促されることはできるのでしょうか。

障害が目に見えて容易に分かる「重症心身障害」を持つ人々に対しても、同じく配慮する気持ちを持たれることはできるでしょうか。

医学の発展に伴い、重症心身障害児の数は近年むしろ増加しています。かつては救うことの難しかった超未熟児や重症仮死産といったケースでも、救命できるようになったことが理由の一つとしてあげられます。

封じ込められた声

重度の心身障害者である重症心身障害児は、動くことも発声もままならないその外見から、彼らが細やかな感受性を持ち、周囲の雰囲気を感じ取る力があることについてまでは、ほとんど理解されていません。

彼らは、周囲の人々が自分に対して抱く嫌悪感、怒りなどマイナスの感情に対して鋭い感受性を示します。心に深い傷を負い、そのうえで複雑な感情を抱えることができてしまうにも関わらず、その重荷を外に吐き出すことのできない苦痛は、想像する側の心が苦しくなるものです。

配慮

市町村に建設される障害者福祉センターなど、重症心身障害児に対する施設的な整備は、以前から進められています。しかし、彼らが障害のあるなしに関わらず、人と交流する機会が以前に比べて増えているのでしょうか。設備と制度を充実させることで、利便性を追求することが、彼らと健康な人たちとの仕切りをはっきりと区別してしまっているように思えます。

配慮とは、いったい何なのか?
たった一つのことで、それは「障害者の心に入っていく」という行為です。立場を区切り責任の所在を割り切っていきさえすれば配慮しているということになる、というわけではありません。

まず、障害者の姿を直視し、彼らがどういった不都合にさらされながら生きているのか知ってみてください。目に見えて感じる痛々しい痛みを自分も同じように感じてみることで、自分が、何をすべきで何をすべきではないのかというを、周囲の人間も知ることができるはずです。

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