fbpx
2019.07.10:フリーペーパーVol.40発刊!

悲しみの涙。「泣くこと」の意味を、誰か私に教えてほしい。

私は、あまり涙を流さないタイプだった。私の記憶では、小学生、中学生の間は本当に泣かなかったと思う。まだまだ子供の頃は、狂ったように泣いていたと母から聞いているが、それだけ泣けば、小学生の頃には涙が枯れたと思っていたのだ。

そもそも、感情の起伏が少なかった。嬉しいと思っても、それが涙に繋がるとは思っていなかったし、怒っても、悲しくても、心が薄い膜に包まれていて、揺れ動いてもその膜が破れることはなかったのだ。だからこそ、一度感情が爆発してしまうと、止めようがないということもあった。同級生から、
「怒ったら本当に怖い」
と言われたこともある。

それでも基本的には何事も受け流して、涼しい顔をしているタイプだった。
ストレートに言えば「何もかもに興味が無かった」ということだ。

ところが高校生になって、クラスの不和。そして更には、私の友人が私の友人を拒絶していたということもあって、どんどん精神的ダメージが重なってきた。そして「高校生」という環境の変化についていけなかった部分もあると思う。意識がぼんやりとしてきて、教室に入る度に感じる心の変化に、身体が追いつくことが出来ない。階段を登ることもしんどくなり、歩くこともフラフラし始めた。最後には、

「明日が来たらもう駄目かもしれない」と思った。

そして、その「明日」には本当に何も出来なくなってしまったのだ。

それからの私は「停止」した。ソファーに体育座りをしたまま全く動かず、言葉も喋れなくなった。電池が切れたというよりも、とりあえず生きているだけの「物」になってしまったのだ。その「私という物」は、ずっと泣いていた。心を包んでいた薄い膜にどんどん涙が溜まっていって、初めてそれが破れ、無言で、何も動くこともなく、ただ涙を垂れ流した。

しかし、1つの奇跡と言えば、家族仲がとても良かったということだ。当時の私は片言の言葉で、母としか話すことが出来なかったが、父はもちろん、私の傍に居た人たちは、

「それでいいよ」

と受け入れてくれた。今、思えば本当に救われていたと思う。一生懸命、病気のことを理解しようとして、いつも私を病院に連れて行ってくれた。歩けない私のために、ショッピングモールで車椅子を押してくれたこともある。

無言で涙を流し、それを拭うこともしない私を見て、どう思っていたのだろうか。しかし、その中で愛が千切れることがなかったのは確かだった。ある意味変わり果ててしまった私を「私」として見てくれていたのだ。

高校1年生だった私は、半年以上学校を休み、2年生、3年生は単位の関係で1年の3分の1の期間を休みながら、ギリギリで高校を卒業した。高校生活で各教科の単位計算をした人は殆どいないだろうと思う。実は、あと1つの教科を1回休んでしまえば、卒業出来なかったのだ。

その頃には、涙を流すことはあったけれど、そこには確かな感情があった。物ではなく人間として、また生まれてきたような感覚がした。けれど、そこから支障が生じてしまうようになったことがある。それは、

「涙を流すことを平然と我慢することが出来る」ようになったことだ。

ショックな出来事があっても「興味が無い」ように出来てしまう。入院中に看護師さんから「我慢してるの、私は分かるよ。何も我慢をしなくて大丈夫だから」と見抜かれてしまったことがあるが、今でも我慢癖は残ったままだ。それに、周囲が気付いているのかどうかは分からないが……。

果たして、感情を表に出すほうが良いのか、それとも我慢しても良いのか。そんなことは「私は」分からない。けれど、心が薄い膜に包まれている状態に戻りつつあるようには思う。これは苦しいか、苦しくないか。そんなことをまた考えることすらない。ただ単に、涙を流すことが嫌だ。と思っているのは確かだけれど。

私は、高校を卒業した翌日に、両耳にピアスを開けた。全く痛くなかった。
高校生活3年間の中で、一番痛くなくて、その瞬間には幸福しかなかった。

感情を出すことが不器用で、それを何とも思っていない私。ただ1つだけ、私の持論を言うと、

「涙を流すくらいなら笑っていたい。涙では何も解決されない」

ということだ。

私は外に出るときは必ずピアスを入れる。それが私の精神安定薬になっているのだ。

最新情報を購読しよう!

就労継続支援・就労移行支援事業者様へ

HIFUMIYO TIMESでは毎月フリーペーパー版を発行しており、各エリア版の加盟店を募集中です。福祉事業者に最適なブランディングと広報力をご提供します。詳しくはお問い合わせください。