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2018.11.10:フリーペーパーVol.32発刊!

一滴ずつ落ちるコーヒーと苦い涙

昼下がり。行きつけの喫茶店でコーヒーを飲み、身体を温めていた。いつものカウンターに座って、目の前でマスターが丸いガラスに優しく火をあてているのをぼんやりと眺める。
こぽこぽと音を鳴らしながら黒い液体が落ちていく。独特な香りが、少しずつ深くなっていく。僕は冷めてきた外の空気を忘れて、温めてもらったミルクをコーヒーに零した。黒と白が混ざり合おうとして、小さな渦を作る。スプーンでゆっくりと回して、その渦を消した。

今日の朝は空が普段よりも遠くに感じたように思う。雲ひとつなくて、冷たい温度を許すかのような空だった。僕はそれを見て、濁ったものを飲みたいと思ったのだ。今、僕は暇で、それなのに時間はあっという間に過ぎていく。ただ、カップを握っている。それだけなのに。

こんな、無の時間は退屈ではない。僕は充実していると感じる。店内に掛けられている時計の秒針の音と、控えめに流れているピアノの音が混ざって、耳の中で溶けていった。

ここに居座っている僕を無視して、ドアは幾度も軋む。カランカランと誰かがこの喫茶店に来たり、帰ったりして、たくさんの人の時間が出たり、入ったりするのだ。ドアが開く音がした時に、ふと、外の景色を見てみると、灰色の雲が青を隠してきていた。
「もしも雨が降ったら、傘はありますか?」
マスターに聞くと、
「ビニール傘があるから、借りて行っていいですよ。そして、返さなくても大丈夫です」
「いつもありがとうございます」
僕は、少しぬるくなってきているコーヒーを一口飲んだ。

いつも僕は無言で、カップがテーブルにあたる音だけしか生まない。何も寂しくない。ひとりは自由だ。誰にも合わさなくていいから、自分のタイミングで立ったり座ったり出来る。去ったり戻ったり出来る。全てが関係なくて、それが自由だと思う。急に冷たくなってきたコーヒーカップを撫でた。温度だけは不自由なのかもしれないと思った。

残りをゆっくりと喉に流し込む。苦くて、甘い。砂糖を入れようが入れまいが苦いものは苦く、甘いものは甘いのだ。もう一杯は飲んでもいいかな、とメニュー表に指先が触れた時、
「雨が降ってきましたよ」
マスターの言葉に、ドアに嵌め込まれた小さなガラス窓を見た。透明な窓が雨粒で濡れていく。やっぱり、今日はビニール傘を差して帰ることになりそうだ。何だか、雨粒が窓のシミになるような気がして、これで「雨が嫌いだ」と言う人がいるのだということが分かるように感じた。
僕は雨は嫌いじゃないけれど、このせいで帰り道は暇じゃなくなる。こんな日に限って、青空を飲み込んで水を吐き捨てる黒い雲に、ため息をついた。

メニュー表を元の場所に置いて、二杯目のコーヒーを頼もうとした時、雨が地面を打つ音が近くなった。入り口を見ると、ひとりの青年が立っている。ドアの音をほとんど鳴らさずに入ってきた彼は、黒い髪から雫を落としていた。
その姿を見て、マスターは店の奥に引っ込んでいく。彼はぼんやりとしていて、入り口の所で棒立ちになっていた。ゆっくりとドアは閉まっていく。外と中が切り離されて、雨の音は遠くなったけれど、青年の時は止まったままのように感じた。

戻ってきたマスターが「これを使って下さい」と、タオルを渡すと、
「ありがとうございます」
そう、細い声で返事をして、のろのろと髪や顔の水を拭った。この青年は、ひとりでは寂しくなってしまうのではないだろうか。僕はそっと隣の椅子をひいて、
「ここに座りますか?」
と言うと、
「良いですか?」
彼は足を引きずるように歩いてきて、席に座った。

「コーヒーを、ひとつ。ブラックで。そして、これ、ありがとうございました」
メニュー表も見ずに注文をして、濡れたタオルをマスターに返す。それからは、無言だった。こぽこぽという音が店内に虚しく響いた。

どうしたんですか? なんて聞けない。けれどテーブルに両肘をついて俯いたまま、その目から次々に水の粒を落としているのには気がついた。
「外、寒いですか?」
聞くと、
「寒いです」
と答える。
僕は青年が左腕に腕時計をつけているのを見つけた。秒針が進むたびにテーブルが濡れていく。僕はポケットの中に入れていたハンカチを差し出した。
「使って下さい。これは、ありがとうございます。とか、言わないでくださいね」
言うと頷いて、受け取ったハンカチを目にあてた。

その時、コト、とテーブルにコーヒーカップが置かれた。ブラックコーヒーから湯気が立っている。しかし、彼はそれに気がつかないまま、
「寒いです」
もう一度、そう言った。
「きっと、温まりますよ」
僕が言うと、ハンカチを外さずに、
「いつまで、寒いかな」
と、うわごとのように呟いて、グッと喉を鳴らした。

静かになった店内に青年の存在が吸い込まれていく。きっと、渡したハンカチはたくさんの水を吸っているだろう。

「冷たくなるから、また温まる。温かいから、冷たくなる。「ずっと」なんて、無いんじゃないかな。僕はそう思います」

すると、何も言わずに、ハンカチをぎゅっと握ったように見えた。
「それなら、終わりは来ますか?」
そう言う青年に、
「終わりは来ますよ。コーヒーも、飲んでいたらいつか、カップの底が見えるから」
すると、彼はゆっくりとハンカチを外して僕にそれを渡した。

「ありがとうございます」

ありがとうと言わないでと言ったのに、当たり前のようにそう言った。青年は、ようやくコーヒーカップに唇をあてる。湯気が肌を撫でるせいなのか、その目はまだ潤んでいるように見えた。

僕は青年のことなんて、全く知らない。その涙の意味も全く知らない。ありがとうございますという言葉の意味だって、全く知らない。それでも、僕のハンカチが濡れていて、彼の髪が少しずつ乾いてきていることだけは分かった。

外では雨が降り続いている。

明日は今日の朝のように空が普段よりも遠くに感じて、雲ひとつなくて、温度を忘れるかのようで、どこまでも綺麗な空になれば良い。青年はそれを見て、濁ったものを忘れられたなら良いと願う。

僕が青年のために出来ることは、それだけだ。

 

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