年上だから敬語の日本「先輩だから後輩より上」という文化の限界
日本に古くから残る文化の一つとして、年上や年下を強く意識するものがあります。
年上の人には敬意を払って敬語をきちんと使い、年下の人には思いやりの心を持って先達として道を説く、など。
たった数年の年齢の違いでも、相手に敬意を払い自らも学ばせていただくという文化は、素晴らしいものだと思います。
しかし、最近の周囲を見渡してみると、「年上だから威張ってもかまわない」のような、本来の年長者の意識のあり方として間違ったものが蔓延(まんえん)しているように思えるのです。
「あのね、敬語使えます?ここ日本なんで変な言葉遣いしてお客様に不愉快な思いさせられたら困るんですよね。敬語、使える?」と言われたので「100%正しい敬語は使えてないかもしれませんが誰かを不愉快にさせるような話し方はしていないと思います」「なるほど(笑)」と言われ面接終了
— 煩悩ちゃん (@piggyme__) 2018年8月19日
男の人が会話で聞き取れなかった時に言う優しい「ん?」がめちゃくちゃ好きですが、最近は知り合ったばかりでずっと敬語だったのにこちらが何か弱った発言した時に「大丈夫ですか?」ではなく「大丈夫?」「残業ですか?お仕事お疲れさま」とタイミング良く放たれる突然のタメ語が控えめに言って結婚し
— しげみ (@m_____e_____g) 2018年8月21日
儒教の影響
日本や韓国、中国など、主に東アジアでは年齢による上下関係が強いと言われます。これが主に儒教という思想の影響を受けていることは、日本では一般的に広く知られていることでしょう。
良い面、悪い面
日本人として長く生活し、目上の人を敬う文化は個人的には「良い文化」だなと思います。ただしそれは、目上の人が若い人に寛容で、自分が正しい道のもとに生き、その道を若者に示すことができる場合に限ったことです。
最近の日本人的上下関係
職場でもこういう人、いないでしょうか?
上司や先輩、年齢が上の同僚などが、立場や年齢で目上であるにも関わらず、人間の中身がとうてい敬う気にもならないような人物ということが。
そしてその先輩が、その程度の人物でありながら自ら仕事を滞らせてしまったり、部下や後輩にきちんと指導しないまま仕事をあてがって指導役としての責任すら果たしていないようなことが。
そういった自分の行動への反省も無く、自分自身を向上させるための努力は何も行わないような人物である場合が。
なんでDMでいきなり同い年、もしくは年下からタメ語で話しかけてくるんだろ?
初めくらいは敬語で話しかけてほしい😡
小さい事だけど気になる😡😡— 無免許ちーちゃ (@m7I5E4VqqbDKm0s) 2018年8月20日
敬語には抵抗ないけど
敬語は、そういう場合ただの記号にしかなりません。
せっかくの理想的な文化を台無しにしているのはそういった目上の人のほうです。
儒教と朱子学は江戸時代の身分制度には都合の良い学問であり、階級社会の思想を維持するに便利なものでした。
しかし、現代は身分の上下などありません。組織での上限関係は契約上の職責に応じて自然と成り立つべきものです。
社長を尊敬する理由は、より多くの責任を負い、より多くの利益を会社にもたらす中心的な働き手だからです。内容の伴う人物に対しては、自然と敬意が生まれるはず。
持つばい って💓
これはね、九州ではすごく砕けた言い方なんです。今迄の敬語からすると、すご〜く仲良しになってるって事😍
胸が高鳴る言葉です(〃ω〃)💕#周防さん #綾野剛#カーネーション
#綾野剛#綾野剛好きな人と繋がりたい#コウノトリ先生#ハゲタカ#パンク侍#剛#剛くん pic.twitter.com/UEKlYG707d— 剛クン好きな人と繋がりたい (@enT4DUCHDdXhTIL) 2018年8月20日
人物は言葉に表れる
年上だから敬語を使うのは、それはそれで構わないことでしょう。仕事など同じ組織にあって同じ目標のために協力していくような環境なら、敬語による統一はなおさら必要でしょうから。
目を向けるべきは常に自分
そのとき肝心なことは、敬意を払わせるのなら、年上である自分の方にそれ相応の高い能力やこれまでの実績、若い人たちに対する思いやりの心など、若手とされる人たちを実力的に上回るそれ相応の「実質的な上位」がなければならないということです。
そういった中身のある優れた点がないなら、少なくとも向上心や克己心を持とうとするような努力の姿勢ぐらいは、最低でも見せる必要があるでしょう。
その程度の向上心すら持たない人物に対し、単に生活年齢が長いということだけで、若者に敬意を払わせることは難しいだろうと思います。
敬語を超えた意識
とはいえ、まじめな若い方であれば、年齢が高いだけの人にも自主的に敬語で接してくるのでしょう。
それはそれでいいのですが、今までなかなか実績を積む機会に恵まれなかった生活年齢が高いだけの年長者自身は、今からでもいいから自分自身に何らかの価値を築き上げるための努力に励む必要があるのではないでしょうか。
努力に遅いということはありません。
努力していくうちに、評価の対象は自分自身に向いてくるでしょう。
いずれ年長年少など問わなくなり、他人からの自分に対する評価や対応の違いが気にならなくなってくるものです。