背の低い人を「ちび」と呼んではいけません。
太っている人を「でぶ」言ってはいけません。
極端に背が高くてひょろひょろに痩せている人を「のっぽ」とか「ガリガリ」とか呼んではいけないことも、私たちは知っています。
では、たとえば男性なら身長が190センチほどあって、体重は75キロ程度の引き締まった筋肉質で立派な体格の持ち主に対する差別も、存在することを知っていますか?
サイジズム(Sizeism)とは何?
Size(体格)の差別ですから、太ってる、痩せてる、身長が低い、高い、その他身体的特徴に対する差別は、サイジズムに該当します。
インターネット上の無料英和辞典などでは「太った人への差別」などとしか載っていないことが多いのですが、2012年発行の『リーダーズ英和辞典第3版』(研究社)によると、「デブ、チビなど、体型にかかわる偏見、サイズ差別」などと表されています。
“日本のビヨンセ”渡辺直美さん
サイジズムを跳ね除けファッションアイコンに。VOGUE記事
「芸人としての道を歩み始めてから考えが変わりました。何故 私が着る物に関して他人からあれこれ言われなきゃいけないのだろうって」
「周りを変える必要は無かった。
ただ 私は私であり続けた。」 https://t.co/ZNsHwv28dM— Eva (@evaeva61979707) 2017年10月19日
大は小を兼ねるが、小は大を兼ねない
先ほど例として挙げた男性が、体格に関してどのような偏見を受けるのかについて、さらに例を挙げてみます。
「身長が高くていいねえ」
「いや、いろいろ面倒なことも多いんですよ〜」
「えー、でもいいじゃない、身長が高いんだから、ちょっとぐらいの不都合は我慢すればいいじゃん。だって背が高いんだからそれだけでもありがたいと思わなきゃ」。
たとえば、この男性がバスに乗った場合を考えてみましょう。
ほとんどの座席が埋まっていて、座れそうな席は2人掛けのものだけだったとします。
乗客がたくさん乗ってきたため、男性は席の奥まで体を詰め、通路側の1人分は空けようと努めます。しかし、2人掛けの席は横幅は長くても、前の座席の背もたれまでの「縦の」距離が極めて短く設定されています。
そのため前の席の裏側に長い脚のヒザがつっかえてしまい、席を空けたいと思ってもどうしても自分の体が収まりません。やむを得ず2人分のスペースを使い脚を開かなくては、狭い空間に長く余った両脚を収めることができないのです。
サイジズム(sizeism)のファッティズムは知っていたけど、対比でスキニーシェイミングというのもあるようだ。http://t.co/lbIF4l2T9c
— 堀田義太郎 (@yoshitarohotta) 2015年7月4日
日本人男性の誰もが175センチ60キロというわけではない
先の例の他にも、食品加工工場など、流れ作業で台の上の作業をするにしても、台が低くてずいぶん腰を曲げないと作業できません。腰を痛める原因になるし猫背にもなってしまいます。
デスクワークの机やイスも、アジャストして最も高く設定してもまだ低く、スネやヒザがつっかえます。不本意にもスチールデスクを頻繁にカンカン鳴らして騒音をたててしまうことにも引け目を感じ精神的に窮屈になります。飛行機なら、常にエコノミー症候群の危険性に晒されているようなものです。
「腰を痛めやすい」
「部屋化や部屋へ移動するとき、かもいに頭をぶつける」
「乗用車を運転しようとしても頭の位置が高すぎて猫背にならないと視界が確保できない」
「男性用小便器を使用すると高さが足りないので膝を曲げて位置を下げなければならない」
など、日本における世間の規格は、高身長の人が使うにはほとんどの場合不都合に設置されています。
疲れているからくつろぎたいだけなのに、ソファに深く腰掛けて足を組んだだけで「尊大な態度」に見られたり。人一倍気を使って思いやりと優しさを心がけ迷惑をかけないよう実践しても、体の大きい強面の男性だったりすると「怖い人」と警戒され、書店で好きな本を選んでいるだけでも警備員に後ろで張り付かれたり。
体が大きいことも小さいことも、なんらかの先入観から性格面の判断材料にされることも多くあります。情報が何もない条件においては、「最初のうちだけは」それもやむを得ないことかもしれません。
しかし、背が高くて手足が長くてスラッとしている人も自分の体格で悩むことがあります。
体格のために得することも損することもあってプラスマイナスゼロかもしれませんが、本人が悩んでいたり言われ無き偏見で悩むこともあるのだと知っておくと、日本のサイズが多数派だけに画一化されていることに気が付くでしょう。
恵まれた体格は、確かにそのおかげで特にスポーツなどにおいて活躍の機会は増えるものです。
しかしながら、日本に蔓延するサイジズムにより「何を贅沢なことで悩んでいるんだ」と否定されがちです。
どんな悩みも本人にとっては深刻なものであり、悩み事として存在する権利があります。
悩みの内容が第三者の主観で否定されるようなことは、決してあってはなりません。