お疲れ様でした。

そう言って今日も1日、過ごした店を出る。白熱灯で明るい店内から外に出ると一変、街は闇の中だった。はあ、と溜息を吐く。そうしてそれは白い煙のように霧散した。

スーツの上に重ねたコート。首に巻いたマフラー。

未だ夜の深みにはまると、やはり寒い。俺はかじかむ手をポケットに仕舞い込んで、足を早める。ふと上を見ると、街灯に照らされる街路樹の枝にぽつぽつと新芽が出ているのが見えた。ああ、春が近い。この時期、俺が務める会社は繁忙期だ。これから新生活を始めるであろう学生や新社会人たちが、こぞってスーツを買いに来る。嬉しそうに、スーツを選ぶその隣で俺は、貼り付けたかのような営業スマイルで立っている。そうして時々、こんなスタイルはいかがですか。なんて言って、夢を売るのだ。

 

就職活動で落ちに落ちた俺は、ラストチャンスだと思いながら選んだ今の会社に、奇跡的に合格した。理想と現実に多少のズレは生じていたが、それでもがむしゃらに働いた。新社会人は忙しい。考えることを忘れ、一つのルーティーンの中で必死に生きたのだ。そうして時は流れ、俺も25歳。もちろん仕事には慣れ、また、後輩も入ってきて、余裕が出来た。するとどうだろう。……気付いてしまったのだ。自身の中身が空っぽになっていることに。

仕事に対するモチベーションなんてものは、もはや存在しなかった。俺は、何をしているんだ? と自分に問いかけてもみるが、「働いている」という当たり前の考えしか浮かばない。そうだ、働いているだけなのだ。何のために? 分からない。

確か、面接では「自己実現をしたい」と言ったように思う。……今の現状を見てみろ。俺は、何を実現している?

ぐるぐると考えながらも、俺は寒さに身体を縮めながら歩く。住んでいるアパートが見えてきた。道を照らすのは街灯と、置かれている自動販売機。最近、街灯は調子が悪く、点いたり消えたりを繰り返している。それを尻目に俺は、自動販売機に500円玉を入れ、温かい缶コーヒーを買った。最近の日課だ。そうして缶コーヒーをポケットに突っ込み、アパートへと向かう。階段を踏むと、カンカンと小気味良い音がして、逆に虚しくなった。

冬に春

強く踏みしめてやろうか、なんて考えも浮かんだが、生産性のない八つ当たりだ。結局、大人しく部屋に帰り、コートを脱ぐ。そうしてそのままベッドに倒れこんだ。

溜息が、出た。

 

大学時代は楽しかった。勉強もそつなくこなしていたし、バイトも真面目にやった。そうして時々、バカやって遊んでいた。あの頃に戻りたいと、幾度も思う。

うららかな昼下がり。ガヤガヤと騒がしい学生食堂。その片隅に俺は座って、麺をすすっていた。向かいには親友の龍。肩まで伸びた髪は脱色されて、時々、キラキラと光る。高校卒業後も染髪せず、黒を貫いている俺とのコントラストは激しいが、人というのは見た目じゃないのだ。……とはいえ、俺たちは基本的に正反対だった。それが逆にバランスを取っていたのかもしれない。

ラーメンの熱いスープと格闘する俺を見ながら、龍はつるつると麺をすすり、スープまで綺麗に飲み干している。終いにはつまらなそうに、頬杖までついていた。

冬に春

「なあ、翔」

「遅いって?」

「その通り」

許せ、猫舌なんだ。言うと、龍はにやりと笑う。そうして、彼は仕方がないとでもいうようにバッグの中をあさり、一冊の本を取り出した。

俺が貸した本だ。

 

「さすが書店員だよな。面白いよ、これ」

「そりゃどうも」

 

今、龍が手にしている本は、バイト先の先輩が勧めてくれたミステリーだ。俺はというと、実は読みかけである。途中で飽きて、放り投げたのを龍が拾ったとでもいおうか。

 

「サイコーだよ、これ。痛快ミステリーだな!」

彼のコメントは最低だが、楽しんでくれているのなら良かったと、俺は笑う。

しかし、龍はぺらぺらとページを捲りながらも、時々欠伸をしていた。

 

「なあ、龍」

思わず俺は、声をかける。

「……それでも暇なら溜まってる課題の一つや二つ、やればいいだろ」

「やだ」

「今度、見せてって言うなよ」

「じゃあ今、見せて」

 

呆れた。このダメ男。こいつは、もう少し自立するべきだ。

そう考えて、そういえば、と思い出す。

「龍、バイトの面接、どうだった?」

聞くと、

「落ちた」

あっさりとしたその言葉。驚いて顔を上げると、龍は大したことじゃあないというような顔をしている。そしてその上、

「俺はもう、暫くバイトはしない」

と言うのだ。

 

なんか、面接受けたら、やる気もなくなっちまったから、まあ結果オーライというか。なんて彼は言っている。

そうだ、龍はアパレルショップの面接に行ったのだ。俺と違って、ビジュアルも良い龍だ。簡単に受かるだろうと思っていた俺は、驚きを隠せなかった。

「でも、もうやんねえって、どうすんだよ」

「オレ実家住みだもん」

「だもんじゃなくて、お前……」

「なあ、学生がバイトすることは義務かよ?」

そう言われて、俺は言葉を返せなかった。……そうだ、義務ではないのだ。

 

「翔は、真面目なようで、時々、深く考えることをやめているだろ」

そう言う、龍の黒い瞳が、俺を見ている。

「この間の面接で、聞かれたんだ。何のために働くのかって。俺は、自分のために働くって言った。そうしたら、店長は、私はお客様のために働いているよって言ったんだ」

龍は少し目を伏せて、それから、頭を掻いた。

「オレは思ったよ、どちらが正しい、働くということなのか? 正解を見つけることは難しいって、分かっている。でも、整理したいんだ。そうしないと、俺は何も消化出来ないまま、ただの働く機械になっちまう」

 

俺は何も言えずに、ただ、彼の言葉を聞いた。確かに、難しいことだ。けれど、と、俺は思う。深く考えすぎではないか、と。割り切ることも大事じゃあないか。実際のところ、俺はそうやってバイトをしている。

そう考えて、息を吸う。

しかし、龍のほうが早かった。

 

「当たり前に、囚われるな。そうしないと、いつか苦しむぞ」

冬に春

ジリリリリ、とベルの音が鳴る。

覚醒しきらない頭、そして重たい身体を叱咤し、目覚まし時計を叩いた。朝だ、仕事に行かなければ……と考えて、今日が休日であることを思い出す。久々の休み。昨夜はあのまま寝てしまったのだろう。気が付くと、やはり俺はスーツ姿のまま。シワになってしまったそれを見て、酷く虚しい気持ちになった。

時刻は、出勤をする日と変わらない。

ああ、これほどくたびれているのに、こんな時間に起きてしまった。しかし、もう目は冴えてしまっていて、その上、またスーツ姿で寝るだなんて、なんだか気が狂ってしまうような気がする。

俺は、ベッドから身体を起こす。そうして立ち上がって、伸びをした。ミシミシと身体が鳴る。これではいけない。いい加減スーツを脱ごうとネクタイに手をかけた。と、視線の先に、缶コーヒーがぽつんとある。きっと昨日コートを脱いだとき、ポケットから取り出し、テーブルの上に置いていたのだろう。手に取ると、温かかったはずのそれは、嫌に冷たくて、俺の手から熱を奪う。そうして冷えていく指先で、ぷし、と缶コーヒーを開けた。一口飲む。

冷えてしまったコーヒーは苦い。

まるで、俺の心のようだ。冷めてしまった情熱は、とてつもなく苦く、現実を突きつけてくる。……そもそも俺に、情熱なんてあったのだろうか。俺の今までの人生において、敷かれたレールなんてものはなかったが、今思えば、社会の「当たり前」を疑うことなく生きてきている気がした。その上に失敗することをも恐れていた俺は、目立つ失敗もなければ、目に見えた成功もおさめていない。

……結局はその事実こそが、失敗なのではないかと今更、思うのだ。

 

text by Suito Aoi|蒼井スイト
Illustration by Iwasaki Sisters|いわさきえりこ・いわさきまりこ